潜在意識は塗り替えられる
- mamikoouchi
- 1月21日
- 読了時間: 7分
久しぶりのブログ更新となりますが、みなさん、お元気ですか?
実は、あまり文章を書くことが得意ではない私は、インスタのキャプションの短い文章ですら、結構な時間を費やし、一人で悩んでしまうタイプです。ましてやブログとなると、心の底から「書きたい」と思うことがないと、なかなか手が進まず、まとまりません(助けてw)
もっと気軽にブログを更新できるようにすることが今年の目標です!
さて、そんな私ですが、今日は少し前からシェアしたいと思っていたこと——「なぜ私は、ずっと続けてきたキャリアを手放してまでウェディング前撮りのビジネスを始めたのか」——について、みなさんに知ってもらえたらと思い、ラップトップを開きました。

幼少期の経験は、その人の潜在意識を形成する大きな要素であり、時にはトラウマとなり、また時には夢や理想、自己肯定感へとつながるものだと言われています。
それは、まさにその通りで、私がカメラマンでもないのにウェディング前撮りやファミリーフォトの会社を立ち上げることを決意した背景には、幼少期の経験、そして潜在意識が深く影響していると感じています。
私は比較的厳格な家庭で育ちました。厳格というよりも、母が理想とする「良い子」を演じながら成長したと言った方が正しいかもしれません。
母にとって「良い子」とは、「普通でいること」や「目立たないこと」でした。
私は昭和55年に長女として生まれた東京っ子、母は東北のド田舎で育ったプチ優等生。
母は私に大きな期待を寄せ、初めての子育てにおいて、彼女なりに最善と信じる方法で私を育てようとしてくれたのだと思います。
しかし、親子だからといって性格や好みが似ているわけではありません。実際に、母の「普通でいなさい」という教えは私に窮屈さえも感じさせ、正直なところ、あまりポジティブな影響を受けることができませんでした。
最近、母娘関係について考える機会が増え、母がよく「あなたは幼い頃から好奇心旺盛で大変だったのよ」と話していたことを思い出します。
星座の話になってしまいますが、私は月星座が射手座であり、生まれつき好奇心旺盛な性格を持ち合わせて生まれたようです。 おまけに天王星という「個性的であれ。己の人生を生きろ」というテーマを持つ惑星が「自己」を表す場所に位置しています。
なんとも皮肉なことに、そんな私が「普通でいること」を重視する母のもとに生まれたのは、ある意味”宿命” であり、それをどう克服するかが私の人生最初の課題だったように感じます。

話は戻って、幼い頃の記憶の中で鮮明に覚えている今でも胸がちくっとする記憶の中に、母が私の服装に厳しかったことが一つあります。(厳しかったというより、彼女好みの地味なテイストに合わせたかったともいうのかw)
10歳くらいのころ、私は少し首回りが広いトップスを着るのが好きでした。どちらかの肩に寄せて肩を見せて着るスタイルが大好きで、他の子がしていない着方を気に入っていたのですが、母が買ってくれた服だったため、最初は何も言われませんでした。しかし、何度もその服を着ているうちに、次第に母は我慢できなくなったのでしょう。「そんな子供らしくない格好はみっともない」と言って、とうとう着ることを禁止されてしまいました。
ちょっと奇抜なデザインのものは、「変よ、そんなのまみちゃんに似合わない」と言われ買ってはくれず、お嬢様っぽいチェックやタータンのスカートやポロシャツのような物をよく着させられていたという記憶があります。
お稽古バックや運動着を入れるバックなどは、自分で選ばせてくれていたものの、変わったデザインのものは選ばせてもらえず、最も無難で誰でも持っていそうなものを与えられていたことに、幼いながらに「私のママも流行りのカラフルなバッグを買ってくれるお母さんだったらよかったのに」と思っていました。
幼い頃は、両親や家庭が世界の中心であり、母が「ダメ」と言えばそれは絶対にダメ、お父さんが嫌いと言えば、その気持ちを受け入れるしかありません。
子どもにとっては、親の言うことが全てで、従うしかないのです。しかし、自分の想いが否定され、行き場がなくなると、自分らしさを出せなくなり、自分を正しく評価することができなくなっていきます。そうなると結果、間違った評価が潜在意識の中に蓄積され、深く根付いていくのです。

思春期になると、私は内田有紀のショートカットや(知らない人も多いかなw)安室ちゃんのギャルスタイルに憧れ、髪をばっさり切ったり、眉毛を整えたり、こっそりオキシドールで髪を脱色したりと、今思い返すと、これらはすべて「自分探し」の過程だったのでしょう。
しかし、そんな私を理解しようとしなかった母は、鏡を見つめる私に向かって、『また鏡を見ているの? 変わらないわよ』、『何をしても変わらないんだから鏡なんて見るのやめなさい』などと、冷ややかに言いました。(普通に酷いですよね😅)
私は昔から『あんなふうになりたい』『こうなりたい』と強く願っていた子どもでしたが、母との関係の中で、自分をどう肯定し、どう好きになればよいのか分からず、迷い続けました。その象徴的な出来事として、当時の写真の中で私が笑っている写真は一枚もありません。
そして、母との関係は最悪なところまで悪化し、家族と一緒に暮らせなくなった結果、17歳の夏、私はニュージーランドへ留学することになります。

ニュージーランドでの生活は、まるで水を得た魚のように、驚くほど心地よいものでした。
日本を離れ、母の視線から解放されたことで、ようやく本当の意味での自己形成が始まったのです。
自己紹介の際には、『Mamiko』ではなく『Mami』と名乗り、スパイラルパーマや金髪、ピアス、さらには古着ファッションに夢中になるなど、それまでとはまったく異なる人間かのように表現しました。(英語はあまり話せませんw)
興味深いことに、個性を打ち出せば打ち出すほど、周囲から評価される機会が増え、友人関係も広がり、アルバイトのチャンスにも恵まれました。決してスタイルが優れていたわけではないものの、現地のカタログやCMに出演する機会を得るなど、それまでの自分では想像もつかなかった新しい世界が広がっていきました。(今となれば、あの時代のニュージーランドだったからこそ起こったことで、夢のような話だと思います✨)

私にとって、写真に写ることは、決して「写りが良い」からではなく、ただ自分を写すこと、そして人に見られる経験を通じて、「このままの自分でも大丈夫」と思えるようになったことが、自己肯定感を育むきっかけとなりました。
この経験を通じて、私の潜在意識がアップデートされ、自分をありのままに受け入れる力が育まれたと感じています。
そして、一番大切なこと。。。。3人の子どもを育てるようになった今、ようやく気づいたことがあります。
それは、私は母に愛されていなかったわけではなく、むしろ愛されていたからこそ、時には辛い思いをしたということ。
母は母なりに、愛情を込めて一生懸命子育てをしてくれていたのだと思います。ただ、母にとって『褒めて育てる』という考え方はなく、田舎特有の『家族を褒めない』文化が根付いていたため、母自身もそうして育てられたのでしょう。
この気づきが私に訪れたのはごく最近のことで、理解するまでに長い時間が掛かりました。しかし、この気づきは私にとって大きな意味を持ち、心がすっと軽くなり、まるで昔の記憶が洗い流されたように感じます。
私にとって、写真を撮られるということは、自分をありのままに受け入れ、自分を愛する、ということの象徴であり、ウェディングやファミリーフォトといった記念写真は、何より自分らしさを表現する最高のチャンスだと感じています。

自己肯定感や自分らしさを持つことができなかった時期があったからこそ、この仕事を通じて、人々がその瞬間、自分らしさを輝かせている姿を見ることに、深い喜びと幸せを感じるのです。
そして、人々がより一層輝けるようにサポートすることが私の役目であり、心の底から湧いてくるパッションです。
今回はだいぶ長文になりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
Mamiko X



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